我々の本質は「ひとつ」である

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※:今回もなんちゃってスピリチュアルですので分かり難いものです。

 

生命(いのち・魂)の始まり、
それを「おおもと」「神」と前回も記事(9/9「みんな愛されている」)書いたが、
それらには名前はない。
あえて言うなら、ということである。
だから、呼び名は何でもいい。
(「神」と呼び捨てすることがどうしても嫌なら「神様」や「神さん」でもいい)

 

よくあるのは、「源」「ソース」「おおいなるもの」。
仏教なら「空」、道教なら「道(タオ)」になるのかも?

ビックバーンの起こる前の状態?
これはちょっと違う気がする。
物質的な側面だけだから、規模が小さすぎる。

ビックバーンの前は何?
宇宙の最後はどうなるの?って考えると
永遠や無限、自由っていうものではなくなるから私的には違う気がする。

まぁ、何であれ、「何か」があって、
そこが本で我々の生命はある、ということ。

 

 

無からは有は生まれない。
無は永遠に無である。
無から何かが生じたのなら、それは無ではなく有であったということ。

そして、有は無にはならない。
形が変わるだけで無にはならない。
無というのは、有に対する概念に過ぎない。

こうして我々は存在(有)しているのだから
存在していて、存在し続けることになる。

だから生命(いのち・魂)は存在し続ける。
形は変われど、その本質である生命(いのち・魂)は存在し続けるものである。

つまり、形=肉体は死んで土(有機物や無機物)に還り他の生き物の肉体になるが、
自分というアイデンティテイはそのまま残りということ。

 

 

無限と無限は重なり合い「ひとつ」になる。
あちらの無限、こちらの無眼というように区別はできない。
限りなきものには境界はないから。
永遠も自由もこれと同じで、そこに区別がなく重なり合い「ひとつ」である。

生命(いのち・魂)の本質、「おおもと」は「ひとつ」である。

 

 

そして、無限の知性もそこにある。

我々は、無限にある価値観、
その中からある一つを選んで「自分」という個性(自我)を表現しているに過ぎない。
そして選び直せば違った個性になり違った自分に自由になれる。

ならば、何度も何度も好きなだけ選び直せばいい。
自分の好む価値観を自由に選べばいい。
その価値観を通じて我々は人生を生きているのだから、
価値観が変われば人生は変わる。

自分が作った常識という存在しない枠組みに心を縛られないで、
誰もが幸せを感じる価値観を自由に選んでいい。

 

 

生命(いのち・魂)の本質、「おおもと」は「ひとつ」である。
このことが真実ならば、すべては繋がっている。
心の奥底で繋がっている。
すべては「ひとつ」であることになる。

ならば、自分を愛せば、他人を愛したことになる。
そして、他人を愛せば、自分を愛したことになる。

このことに気づくと
自分は「おおもと」「大いなるもの」から過去から未来、永遠に愛されていることが分かる。
ただ今まで自分が自分を愛さなかったためにこのことに気づいていなかっただけなのである。

 

形に囚われないこと、目に見えることだけが真実ではない。
五感だけを頼りに物事を捉えないこと。
その中身、五感では分からないことに意識を向けること、
囚われの無い、偏見の無い、執着の無い広大無辺な心で感じること。

そこから何か気づくことがあるはずである。
心が響く何かがあるはずである。

本質である心、生命(いのち・魂)は、「ひとつ」であるから、
普段感じられないとても大きなエネルギーを感じたり、
ときに思いもよらないインスピレーションが心に浮かんだりもする。

 

あ~、今回もうだうだと思うままに書いてしまった。
なぜなら私に纏める能力がないからである。
申し訳ないですが内容は分かる人が分かればそれでいいです。
所詮、ひとりごとですので分からない人はスルーしてください。

 

 

 

<お願い>
このブログは私のひとりごとです、私の個人的な価値観を気ままに書いてあるだけです。
元々は「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望から書き始めたものです。
従ってブログの内容は会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与え不快にさせることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると大変ありがたいです。

 

 

 

 

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