人生は虚構、自分しか存在していない。

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自分の人生は自分が作っている

「自分の人生の主役は自分」、この言葉はよく聞くと思いますが、この意味を理解し真実であると認識している人はあまりいないと思います。

もしこの言葉を理解して真実と認めていたら、その人は周りに振り回されて生きてはいないでしょうし、他人の評価で一喜一憂することはないと思います。

 

「自分の人生の主役は自分」、これは自分の人生を、映画やドラマ、舞台のお芝居に例えたことから生まれたことばだと思います。

そして、この言葉には続きがあると私は考えています。

それは、自分が主役であることは勿論ですが、その他に「監督」「原作者」「プロデュサー」でもあるということです。
つまり自分の人生という映画の製作者、作り手ということです。

そしてもう一つあります。

人生という映画を見て、「良かった、悪かった」「面白い、つまらない」などと何らかの感想を持つ「観客」でもあるということです。

 

つまり、自分とは、自分の人生の主役、作り手、観客の3役をやっていることを「自分の人生の主役は自分」という言葉が真に伝えていることだと私は考えています。

 

他者は自分を際立たせるための共演者

ならば、他者とは?

自分以外の人はすべて、自分の人生の共演者です。
親も子も友人も恋人も、その他の全ての人達がそうです。

作り手である自分が、彼らを選んで親、子供、友人、恋人などの役を相手に与えているのです。

 

人生という映画で「自分がどんな人間であるか!」を表現するために、作り手として自分の周りに人間を集めて、自分とは異なるキャラクターを各々の人に勝手に与えて、一緒に演じて、そして出来た作品を自分が見ているだけなのです。

それは、人だけでなく物や出来事に対しても同じであり、自分がその意味や価値を与えて「自分」という人物像を際立たせる様にしているだけなのです。

その自分の人物像は、良くも悪くも無意識の内に自分に対し下している自己評価や自己イメージのことです。

 

そして、人生という映画を通じて、この自己評価を観客として見続けてしまいますから、時間の経過と共に自分に対する評価を強固にし「自分とは〇〇〇な人間だ!」と思い込んでゆきます。

だから人は歳を重ねるにしたがい自分像が強くなり「〇〇〇な人間」として生きるのです。
お年寄りが頑固になるのも仕方のないことなのです。

 

自分の人生は自分だけが見ている世界

と言うことは、自分が見ている人や物、出来事の全て、つまり自分が日々生きているこの世界は自分が意味や価値を付与している自分だけの世界ということになります。

言い換えると、自分の人生とは自分の心の中の価値観が具現化しているだけのものを自分だけが見ている世界ということです。

 

これは他の人にも同じことが言えて、その人が見ている世界と全く同じものを自分が見ることはできないと言うことにもなるのです。

 

つまり、各々の人が、各々の心の中を見ているだけで皆が全く同じ世界を見ている訳ではないということになるのです。

それは、自分の真実は自分だけの真実であり自分にしか通用しないということ、他者には通用しないということになるのです。

 

ならば、人生とは、この世界(自分の目に見える世界)とは、この世とは・・・・、すべて自分が作り出した虚構といえます。幻想なのです。

 

もちろん、自分と他者の価値観が似ていれば似たようなものとして見ることはできますが、それでも100%全く同じにはなりません。

このことを理解していないと「相手も自分と同じ様に見ているに違いない」という思い込みから、予期せぬ誤解が生じ、そこから様々な人間関係の問題が起こる可能性があるのです。

 

私の人生に真の彼らはいない、他者の人生に真の私はいない

ここまで「自分」という言葉で説明してきましたが、ここからは「私」に置き換えてみます。

 

私の人生には、毎日沢山の人が現れます。

その人達は、名前の知っている人もいれば、知らない人もいます。

目の前にいることもあれば、遠くに離れている場合もあります。

テレビやラジオの中にだけいる人もいます。
本の著者としてだけで知り一度も会ったことも無い人もいます。

しかし、どの場合も私の人生に本当に存在しているのは私一人だけです。

 

つまり、他の無数の人達は、どこに居ようとも全て私が勝手に作り上げたキャラクターを演じている虚ろな登場人物でしかないのです。

それがどんなに素敵な人物であろうとそうでなかろうと、その様なキャラクターを共演者達に付与したのは私なのですから私の人生においての全責任は私にあるのです。

 

そして私自身も、共演者達の各々の人生に登場する一人の共演者でしかなく、その人達が銘々に勝手に作り上げ私に与えたキャラクターを演じる虚ろな登場人物の一人でしかないのです。

だから他者が私を好いても嫌っても、褒めても貶しても、他のどんなことであっても、各々の人が私に与えたキャラクターの評価でしかなく本当の私自身ではないので、私は他者の評価を全く気にすることはないのです。

 

つまり、誰一人として私の人生に真の彼らとして存在してはいないし、それと同時に、真の私も誰の人生にも存在していないのです。

我々人間は、お互いがお互いに対してそうしているのです。

 

気づかないと自分の人生に騙され続けます

今回は急に変なこと!? 過激なこと!?を書きましたが、私自身が書いている途中で「これって伝わるの?」って何度も思いました。

まぁ、それはいつものことだし、今回に限ったことではないのでいいでしょう、と結局は勝手に納得しましたが・・・・。

 

では、なぜ人生をこの様に考えるに至ったのか?・・・・・それを今振り返ると。

人間とは? つまり、生命とは?、心とは?、肉体とは?、
「なぜ人は生まれ、生きて、死んでゆくのか?」、仏教でいう四苦(生老病死)などを真剣に考えて、考えて、考えたら・・・、

日常の諸事を、一日の中でほんの一時でいいから片隅に置いて、考えて、考えて、考えたら・・・・、

自分が信じ込んでいる常識というものを出来るだけ手放して、考えて、考えて、考えたら・・・・、

いつかきっと何かを感じるはずです。私自身は、なんかを感じました。

それは、私の心の中の小さな声?、言葉?、思考の塊?・・・・う~ん、言い表せないけど、何かに気づくと思います。たぶん!?

 

 

ヒント、これらを今考えているのは誰ですか?・・・それが自分でしょ!

考える主体が自分、今、考えているが故に、今、自分が存在していることになるでしょ!

そして、何をどうの様に考えるか!捉えるか!によって、自分が意識している物事に自分が意味や価値を与えていることになっていると思いませんか?

それをあまりに無意識に、無自覚に、無責任に日常的にやっていることに気づきませんか?

 

物事の意味や価値は始めから決まっていると思い込んでいて、それらを疑おうとしない心では、物事の真の姿、本質は何も観えてはきません。

これからも自分が無自覚で作り出した虚構に自分自身を騙し続けてしまいます

しかし気づけば虚構に騙されなくなり、自分がその虚構の製作者なら「人生を自分次第で変えられるかも?」と思いませんか。

 

デカルトの「我思う故に我あり」です。
「我」という真の実存から自分の人生が生まれ出ている(創られている)ことになるのです。

天上天下唯我独尊・・・全ての世界において我しかいなく唯一の尊い存在です。

般若心経の「色即是空、空即是色」です。
あらゆるものが空(無限・自由・永遠=真我=真の心)であり、からあらゆるものが生じていると言ってます。

お釈迦さんが言ったとされる「諸行無常」「煩悩を捨てなさい」などの言葉の意味が分かると思います。
(煩悩とは、「決まり決まった価値観」「固定観念」「常識」と私は解釈しています。)

この世界には、他にも真理を語る多くの言葉があると思います。

それらについて考え続けたら、いつか「人間とは? 生命とは?、心とは?、肉体とは?、『なぜ人は生まれ、生きて、死んでゆくのか?』」に答えが出ると私は思います。

 

う~ん、やっぱり今回書いたこと、多分、伝わらないと思います。

あまりに抽象的かつ主観的なことなので難しく、私の語彙力と文章力では私の心の中の想いが表現できません。

 

そして、これも私の作った虚構です。幻想です。

私しか本当のところは分からないのです。

読んだ方には申し訳ないですが・・・何卒、お赦しを。

 

◎過去の記事:「あなたの心の真実を知っているのはあなただけ ①」「あなたの心の真実を知っているのはあなただけ ②」もお読みください。

 

 

<お願い>
このブログは私のひとりごとです、私の個人的な価値観を気ままに書いてあるだけです。
元々は「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望から書き始めたものです。
従ってブログの内容は会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与え不快にさせることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると大変ありがたいです。

 

 

 

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