(※これは2010年12月15日のブログからの転載です)
「人間は未熟であるからこそ、完璧な存在である。」
「未熟」と「完璧」、矛盾する言葉であるが、実はそうではない。
人間は常に成長する。
それは身体(肉体・頭脳)だけでなく、心・精神・魂の成長を意味する。
人間がもし完成された存在なら、人間には何も起こらない。
なぜ、何も起こらないかと言うと、
それは、完成とは、変化が起こらないことだから。(※)
もし、人間がどこかの時点で完成してしまうなら、
やっぱりそれ以降は、もう何も起こらない。
完成、そこからの成長は無いことを意味する。
これでは、生きていてつまらない。
ものごとは、変化があるから面白いのである。
人間は常に成長する余地があるから、生きる意味がある。
常に成長するために、終わり無く成長するために、
人間は、ずーっと未熟な存在なのである。
それは、人生をずーっと楽しむことになる。
未熟とは、まだまだ伸びしろがあること。
自分の中にまだ気付いていない可能性があること。
成長は、喜びであり、幸せである。
未熟とは、もっともっと楽しんで良いということ。
もっともっと幸せを感じて良いということ。
自分は何をやってもダメだと思うことはない。
自分には価値が無いと思うことはない。
完全な自分、完成した自分を求めるのでなく、
成長し続けれることに意味がある。
そして人間は生きているだけで日々、
いや、この一瞬にも成長していることに気付いて欲しい。
「生きること」の目的が、自分が「幸せを感じること」なら、
人間は、永遠に未熟であるからこそ、永遠に幸せを感じることが
出来る存在である。と言える。
故に、
今、既に、誰もが幸せを感じる為に完璧な存在なのである。
こう言った意味で「未熟」と「完璧な存在である」は、
矛盾しないと私は思っている。
(※):追記事項
完成とは、何も起こらないこと。
もし、変化が起これば、それは完成ではない。
完成までの途中で、つまり、未完である。
何も起こらないとは、何も始まらないこと。
始まりが無ければ、もちろん終わりは無い。
始まりも終わりも無いことは「無」ということでもある。
完成は、無であるとも言える。
でも、人間は、こうして存在している。
無ではない。
無ではないので、やはり完成した存在ではない、と言える。
つまり、人間は未完であり未熟である。