愛は犠牲ではない ①

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家族のために、相手のために

犠牲になっても誰も喜びません。

愛は犠牲を求めません。

家族のため、と言って
自分を犠牲にして仕事に行きお金を稼いでも
いずれは辛く苦しくなります。

その辛く苦しく思う気持ちが、
「私は家族に対して愛情が薄いのではないか?」
と思え、心の中で自分を責めてしまいます。

 

そして、その責めに耐え切れなくなると
犠牲の代償として家族からの感謝を無意識の内に求めてしまいます。

しかし、それが感じられないとき
「何故、感謝してくれない。
何故、私の頑張りを誰も認めないんだ。
もっと理解してくれ、愛情を注いでくれ。」
と心の中で家族を責めてしまいます。

 

でも実は愛情は注がれている場合が多いのですが、
愛を犠牲として捉えている人の場合は、
自分が感じている苦しみと同等以上の愛情を家族から注がれていると
感じなければ、
そのことを認めることができないのです。

だから、日常の中で色々なことをしてもらっていても、
そこに自分が求める愛情を感じることができないため、
徐々に心には不満がたまり、
その不満を誰かにぶつけたくなってしまいます。

 

溜まった不満のぶつけ方

不満のぶつけ方は、目に見える暴力とは限りません。

家族を自分の意に従わせることで不満を解消しようとして
父性や母性を、または夫や妻としての権利を主張し
半ば強制的に行使することもあります。

その一方、仕返しとばかりに
家族に対して無関心、無感謝になることもあります。

 

これらとは別で、
自分でも気づかない内に
家族を相手を言葉で責めていることもあります。

それは、
自分の行動の全てが愛する家族のためであるから
そこを理解して欲しいと訴えることであったり、
または、
自分の苦労や人生の不幸、後悔する気持ちを
家族や身近な周りに訴えることで行われています。

要は、同情や理解を求めることで
自分を正当化し心を慰めているのです。

 

自分も何かの犠牲を払わなければならないのでは?

しかし、これでは自分の苦しみを
周りに肩代わりしてもらっているだけで何も解決していません。

むしろ家族や周りを責めていることになっており、
そのことが本人も周りも気づき難くなっている場合が多く
その分とても厄介です。

 

家族や相手の立場からしてみれば、
自分たちのために誰かが犠牲になっているのだ
と訴えられれば、
そこからは手放しで幸せを感じることはできなくなります。

むしろ重苦しさと
自分の存在に対する自責の念を感じざるを得ないでしょう。

そして、この苦しさを軽減するためには、
自分も何かの犠牲を払わなければならないのでは?
と感じてしまいます。

これでは何が幸せであり、
自分たちが何のために生きているのかが、
家族の誰もがサッパリ分からなくなってしまいます。

 

愛についての間違いに気づかない限り繰り返される

確かに不満を溜め込むことは精神的にはよくないです。

早く吐き出してスッキリした方がいいです。

しかし、いくら不満を吐いても、
それは一時的にガス抜きが行われただけなので、
時間と共に溜まり、いずれは耐え切れなくなります。

そしてまた同じ様に無意識に相手を責め、
自分の人生を嘆くことになります。

残念ながらこれら不幸の連鎖は、
愛についての間違いに気づかない限り繰り返されてしまうのです。

 

◎次の「愛は犠牲ではない ②」に続く

 

(※これは2015年03月03日のブログ記事の転載です)

 

 

<お願い>
私のブログは「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望が元で書き始めたものです。
従ってこれは会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると幸いです。

 

 

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