◎前の記事「相手を頑固者と思うとき ②」の続きです
私の心が響いたのなら同意した自分を認めます
前の記事にも書いたように私は、私の心に響けば、
誰の言葉でも自分の新たな考えとして受け入れます。
その言葉を言った人が、
個人的に苦手だなと思っている人や
世間的に非難されている人や、
たとえ罪を犯した者であったっとしても、
その人の言葉が私の心が響いたのなら、
その言葉、考えに同意した自分を素直に認めます。
なぜなら、自分には嘘がつけないからです。
人に同意するのではない、考えのみに同意する
ただ勘違いしてほしくはないのは、
その話をした人に同意するのではないのです。
あくまでも言葉、
つまり、考えのみに同意するのです。
だから誰が言ったのかは全然関係ないのです。
男女の違いはもちろん、
子供だろうと後輩だろうとお年寄りだろうと
素人や玄人関係なくどんな職業の人であろうとも
国や文化、宗教が異なろうと全く関係ないのです。
私の心が響けば、その人の考えに同意したのです。
逆の言い方をすれば、
世間一般に高い評価をされている人
歴史上の偉人の言葉でも、
有名人、著名人の言葉でも、
専門家の言葉でも、
上司や先生、親、恩人が言ったとしても、
私の心が響かなければ、私は自分の意見を変えません。
本物は自然と周りを魅了し尊敬されてしまう人
この姿勢は、意固地でも独善的でも執着でも排他的でもない、
と私は思っています。
なぜなら、そもそも納得もしていないのに、
私が相手から良く見られようと体裁を整えるためだけに
相手の意見に合わせる行為こそ反って相手に対して失礼である、
と思うからです。
私自身、中身を無視して体裁だけを整える行為が嫌いだからです。
私は、
「自分の考えに自信のある人ほど、
相手に自分の考えを強要することはしない」
と思っています。
肩書き(外見)ではなく本当に人々から尊敬される人は、
プライドを気にせず中身を大切にする人であると思います。
故にたとえ相手が自分の意見を受け入れなくても、
それに対して気分を害することはないと私は思っています。
この様な人こそが本物であり、
自然と周りを魅了し尊敬されてしまう人であると思います。
私は先ほど「人には同意しない」と書きましたが、
もちろん私の心が動かされてしまう魅力ある人には、
私も自然と尊敬してしまいます。
もし、私がこの心の変化を素直に認められなければ、
それこそ私自身が意固地で独善的で執着心の強い排他的な頑固者です。
しかし、私はそこまで馬鹿ではないと自負しています。
どう捉えるかは相手の自由
ちょっと話が逸れましたが、
私は、「探し求める考えは自分の中にある」と考えています。
自分自身の中の声を聞きたいから、
相手の”かたち”に囚われず自分に素直に正直にいたいだけなのです。
だから今の私は頑固者と思われても、
そのことに対して言い訳も言い返しもしません。
私のことをどの様に見るかは相手の自由です。
そして私も私の意見を誰にも強制しません。
ただ、「私はこう思いますよ。」と素直に伝えるだけです。
それをどう捉えるかは相手の自由にします。
このようにした方が私の心は自由で楽だからです。
理解し合える時が必ず来ると信じて待ち続ける
もちろん相手が私の話を誤解していると気づけば説明をし直します。
しかし、それでも価値観を押し付けることはしません。
そして、もし相手がその人の価値観に囚われ
私の話が理解出来なく拒絶すれば、それ以上は干渉しません。
相手が心を開くまで、
理解し合える時が必ず来ると信じて、
焦らず、気長に、そのまま、誤解されたまま待ち続けます。
このように出来れば、
誰もがお互いに自由でいられ、
心が無駄に苦しむことがなく平和な人間関係が築ける
と私は思うからです。
あらゆる人間関係は自分自身を映す鏡である
誰もが頑固者ではありません。
自分自身の気持ちに正直なだけです。
もし、私が頑固者と相手を非難したとき、
それは私自身が独善的で頑固者なっているのだ、
と考えます。
そして、あらゆる人間関係が自分自身を映す鏡であると捉え、
私が自分の中に探し求める考えに気づく切っ掛けにしたい
と思っています。
◎次の記事「心に響いた考えに責任を持って生きること」に続きます
(※これは2015年02月18日のブログ記事の転載です)
<お願い>
私のブログは「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望が元で書き始めたものです。
従ってこれは会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると幸いです。