なぜ私は心配が愛情だと思い込んだのだろう?

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※:これは前回の「自己否定のレンズ ②」の続きです。

 

なぜ私は心配が愛情だと思い込んだのだろう?

前回の記事で、自己否定の私は心配を愛情と思い込んでいます。

 

なぜ私は心配を愛情であると思い込むのでしょうか?

それは、私が相手を心配することは、
相手のことを考えていること、
それは大切に思っていることである、と捉えているからです。

 

確かに相手のことを考えていることは大切なことです。

もちろん相手にしても嬉しいことですが、
でもその中身が問題なんです。

 

良い可能性を見ていない

心配するとは、
相手のマイナスな可能性しか想像できていない、
ということに気付いていないのです。

その人に問題を解決し幸せになっていく力、
つまり、
相手の中にある未知なる肯定的な可能性、強さを
自己否定の私は見ていないのです。

 

そりゃそうでしょう。

私は、私自身にそんな素晴らしい可能性ある、
と考えることができないのですから無理もありません。

 

罪悪感の軽減と無意識の優越感が曲者

また、心配することは、
相手に対して無関心でいる訳ではないということです。

言い換えれば、
相手を心配することで自分自身を信頼できない私が、
自分の無力さ弱さに対しての罪悪感を減らすことができるからです。

 

そして、「あなたの為に!」という立派な名目で
私は自分勝手な指示や命令することで、
相手を自分の力の届く範疇に入れておき、
それにより僅かでも安心を感じることが出来ます。

しかもこのこと加え、
この微力でも保護していることは、
無意識の内に優越感という甘美を私自身に与えます。

なぜなら、保護するということは、
自分の方が保護される対象者より強く優しいのだ、
と思えるからです。

 

この罪悪感の軽減と無意識の優越感が曲者で、
ほんのりと甘い蜜や媚薬のように本人も気付かない内に
心配し保護しようとする者を良い気分に酔わせます。

このようにいい気分に酔っている私は、
「相手を心配して自分の思い通りにしようとすることが、
 相手にとって良いことをしているんだ!」
と勘違いをしてしまうのです。

 

この勘違いが、
自己否定の私にとって相手を心配することが愛情である、
と思い込んでしまう訳なのです。

だから、勘違いしている自己否定の私は、
一生懸命に相手を心配し、
「相手の為なんだ!」と自分の思い通りにしようとするのです。

 

本当の幸せとは何か!が分からないから仕方ない

このように自己否定の私がする心配は、
その中身を見ると残念ながら相手の為になってません。

全てが、
私が偽りの楽な気持ちを感じるためにしていること、
になってしまっているのです。

 

でも決して悪意があってしている訳ではないのです。

本当に自分も相手も幸せいるために!
と願ってのことなのでから責めてはいけません。

ただ、
自己否定のレンズで世界を見ている私にとっては、
私や自分の大切な人にとっての本当の幸せとは何か!
が分からないから仕方がないことなのです。

 

何度も心配して落胆して徐々に気づきはじめる

自己否定、それは自分を愛していないことです。

自分を愛さない限り、
どういうことが幸せなのか?が分かる訳がありません。

 

私のように幸せとは何かかが分からず
知らず知らずに独善に陥った人にとって、
自分のしていることが、結果的に自分や相手の幸せには繋がらない、
と気づくことは
簡単ではないのです。

 

沢山、沢山、心配して、
媚薬に酔って、望まぬ結果に落胆して、

「なんでこうなってしまったんだろう?
 こんなはずじゃなかったのに・・・どうして!
 はじめは上手くいってたのに・・・、
 どこからズレてしまったんだろう?
 何がいけなかったんだ!!」と何度も何度も思い悩むのです。

そして、
「いったい、自分が求める幸せとは、どういうことなんだ!?」
と真剣に考えるところから、

「自分の考え方、価値観に原因がある!」と徐々に気づき始めるのです。

 

 

※:次の「自己肯定のレンズに替えたら」に続きます

(※これは2017-07-05のブログ記事です)

 

<お願い>
これは「ひとりごと」として、その時の私の伝えたいことをランダムに採り上げ書いたものです。
もちろん、治療中にお話ししたことでもありますが、テーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けるようお願いいたします。

 

 

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