誰もが最善を選択して生きている

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人生は望まない結果になることの方が多い

人は自分の人生を不幸にしようとは思っていない。
なんとか好い人生を生きようしている。

望むことばかりが起これば、そんな人生は幸福だろう。
そして望まないことが起こらない様にと願うだろう。

でも、現実には様々なことが起こり苦しめられる。

 

人は、人生で何か問題が起こったとき、
「何とか解決したい」と願い、その人なりに一生懸命に努力する。

心の中で「こうしたらいいんじゃないか、あーしたらいいんじゃないか」
と考え、心の中にある天秤で少しでも良いと思う方を選び、それを実行する。

しかし、そこから得た結果が必ずしも自分が望んだものになるとは限らない。

むしろ人生は望まない結果になることの方が多いと思う。

 

無闇に後悔し責めることはバカバカしい

そこで人は自分を責める、自分の選択を責める。
「どうしてAを選んだんだろう。なぜBにしなかったんだろう」と。

でも、それは後になって思ったこと。
当時の状況、つまり当時の心の余裕、心の視野から問題を見たときには、
Aの方がBよりも良いと思えたんだから仕方がない。

 

たとえ僅かでも(1秒でも)時間が過ぎ、全ての状況が変化した中で、
自分の心の余裕も心の視野も変化した今、
この視点から当時を見れば、Aを選択したことに後悔するかもしれないが、
それは違う。

なぜなら当時と比べ全ての状況が変化した今の基準で当時を見ても、
公平に評価することなど到底できることではない。

 

むしろ、Aという選択をすることで経験できた結果があるからこそ、
そこから得たことで、今、新しい基準に進化したはずである。

つまりAを経験することでBの価値を知り得たということである。

そのことに気づかず無暗に後悔することは、
とってもバカバカしく、無意味に自分を責めて苦しめるだけである。

 

自分が不幸になるために選択する訳がない

誰もが自分の不幸を願ってはいない。
少しでも良くなるようにと願って人生を選択している。

意識的であれ無意識的であれ、それは同じである。

 

熟慮して選択したことは勿論のこと、
「つい、何も考えずに、安易な考えで選択してしまった」
と後から思ってしまうことも同じだ。

例え浅はかな考えであっても、
そのとき「いいな」と心の天秤が傾いた方を選んでいる。

人は、わざわざ自分が不幸になるために意図して悪い方を選択する訳がない。

誰もが、そのとき自分で気付いている範囲の中で、
少しでも「いいな」と思う方を選択しているのである。

 

最善なことになっているんだ

 

私は「誰もが常に最善を選択して生きている」と思っている。

どんな結果が生じようとも、私はそう思っている。
例え望まない結果になってもそう思っている。

だって、もっと悪い結果になる可能性だってあるのだから、
これぐらいで済んで良かったと受け止める。

あらゆることが、
もっともっと悪い結果になっていた可能性があるのだから。

 

しかし、こうして今生きているということは、
「人生は最善なことになっているんだ」と気づくことである。

 

望む結果のみに心が縛られていると、この様には思えないだろう。

心は自由、決まり決まった価値観なんて無いのだが、
このことに気付いていない人は、自分の基準に裁かれ辛いだろうと思う。

 

でも、「今、こうして生きているから」
今がどんな状況でも、ここから人生の続きができるのである。
これは事実である。理想論ではない。

今回は前回と違う選択をすることができるのである。

そして今からやり直せばいい。

 

例え僅かでもいい。
やれることからやればいい。やりたくなったらやればいい。

やる気が出ないなら、休めばいい。好きなだけ休めばいい。
そして、やりたくなったら、そこからやればいい。

 

そしてまた何か(望むこと、望まないこと)結果が起こり、
それをあるがまま受け止め、手放し、
そこからまた自分が選びたいことを素直に選び生きてゆけばいい。

人生とは、この繰り返し、そういうものである。

 

最悪は「人生の続きができないこと」である。
だって、やり直しがしたくてもできないのだから。

だた、私の死生観では「死」は最悪ではない不幸ではない。
この世の私の人生という物語が一つ終わっただけで気にすることはない。
私の魂は存在し続け、この世の続きは次の人生ですればいいと私は思っている。
だが、こう思えない人には死は最悪なことだと思う。
しかし、今、こうして生きているなら、今の人生はここからやり直せばいいだけである。
もちろん、今、やり直したくなければ無理にやり直さなくてもいい。
いつか気が向いたからでも充分である。だって自分の人生なのだから自由である。

 

 

負のサイクルは、今ここで途切れる

反省はしてもいい。
一つの経験は、次の選択のための情報となり、
「よりいいな」と思う方を決める糧になるからである。

しかし、先程も書いたように後悔は要らない。

 

今の状況から過去を裁いても何の意味もない。
過去の自分を責め、今、自分が苦しくなるだけである。

それでは、益々心の視野は狭くなり余裕も小さくなるから、
今からもっといい選択が出来なくなる。

 

未来は今の選択で決まってくる。

未来を良くしたいのなら、過去の後悔を消し去りたいのなら
今、出来る限り大きな心の視野で物事を見なければ
良い選択肢を見つけることが出来なくなる。

過去を責めれば今の自分の心は狭くなりもっと物事が見えなくなる。

これじゃ負のサイクルから出るのが益々難しくなるだけである。

 

本当に脱出したいのなら、過去の自分を責めることを止めること。

「あのときはあれが最善だった」と認めることである。

過去のあるがままを、今、受け入れることである。

 

もし今、過去を受け入れたら、今から未来は変わり始める。

ずーっと続いた負のサイクルは、過去を受け入れた瞬間、今ここで途切れる。

代わりにそこから望むべき未来へと変化してゆくことになる。

 

動機には悪意がないのだから責める理由はない

厳しさや責めは、自分の弱さであり、心の狭量である。

これは自分自身に対する大きな誤解である。

 

人間の中身、本質に優劣などない。
目に見える姿かたちに騙されてはいけない。

人間は誰もが強き存在であり、その真の強さは皆等しく優劣は無い。

 

自分を信じる、未来を信じる、これは強さだ。

自分のあるがままを受け入れる、過去の全てを受け入れる、
これは自分の心の器の大きさ、優しさだ。

 

誰もが最善を選択して生きている。

「幸せに生きたい」という気持ちがあるのなら、
人生で何かを選んだその動機には悪意は存在しない。

ならば、例え望んだ結果にならなかったからと言っても、
その選択をした自分を責める理由はどこにもないことになる、と私は思う。

 

常に今、ここから、自分に素直に正直に
「いいな」と感じることを選択をすればいいだけである。

そして、あらゆる結果に「これはこれでいい」と〇を点けて、
次の選択をすればいい。

 

それでも責めたい人は、責めればいい。
私はそれを止めないし、それを責めない。
ただ、自他を信じて、自他のあるがままを受け入れるだけである。

これが自分を愛し、他人を愛して生きることであると私は思う。

 

◎次のテーマ「幸せに生きる手本になること」に続く

 

 

 

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元々は「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望から書き始めたものです。
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そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与え不快にさせることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると大変ありがたいです。

 

 

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