自分を愛するということが人生の唯一の宿題

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自分を愛するとは、

自分を常に信じ切る(信頼する)こと、
そして、あるがままの自分を全て受け入れる(赦す)ことである
と私は思っている。

これができたとき、自然と自分と同じように他人を愛すことができる。

そしてそのとき、
自分が既に全てから愛されていたことにきっと気づくはず。

この
「私は、ずーっと愛されていたんだ、そしてこれからも永遠に!」

という気づきと喜びが、人がこの世に生まれてからずーっと探し求めていた
幸せなのだ
と私は思う。

 

人は一生懸命に幸せになろうと努力するが、
何が幸せなのかが分からない間は、幸せは見つからない。
当然、目の前にあっても気付く訳がない。

 

良い成績、志望校の合格、
彼氏や彼女ができること、良い就職先に入れること、
車、洋服、結婚、家を持つこと、子供が授かること、
出世、地位、名誉、お金、仕事の成功、珍しいものを得ること
旅行、美味しい物を食べること、趣味、遊ぶこと、
褒められること、金メダル、・・・etc
これらは全てどれだけ求めても自分を幸せにするものではない。

 

この内のどれか、全部でなくても実際に得てみれば分かるはず。
喜びは長く続かず、ものによっては喜びは一瞬で消え、
それと同時に心の中で何かもの足りない感じが生じる。
この不足感を解消するために飽きもせず、また幸せを探し求める。

人生はこんなことの繰り返し。

その内に自分が何の為に生まれ生きているのか、その意味が分からなくなる。

 

しかし、生きるためにしなければならないことだけは有り続ける。
老いも日々刻々と積み重なり肉体は弱り続ける。
病気に対する恐怖や不安は漠然と存在し続ける。
そして決して避けられない「死」という終わりに対する不安もあり続ける。

そう、仏教の四苦(生・老・病・死)である。

こんな問題を我々は生まれてから今日まで抱え続けている。

人は、この問題を忘れるために先程列挙したものを得ることに一生懸命になる。

でも、一向に四苦という問題は解決しない。

 

もしこの四苦を解決したいのなら、それを無くすものがいる。

苦を消すには、それを上回る幸せ感じること以外に他はない。

先程の偽ものの幸せではなく
決して消えることのない本物の幸せを感じるしかない。

 

「自分なりの死生観を持つことは大切である」と最近ブログで書いたが、

死後の世界があろうと無かろうと、
人間とは何なのか?が全く結論が出なくても、
今、自分がこうして生きていること、これだけは事実である。

幸か、不幸か、良い気分か、悪い気分か、何かを感じていることも事実である。

 

何度も言う様に
幸せは形あるものではなく、また、他人から与えられる評価でもない。

幸せは自分が感じるものである。

そして求める幸せは恒久的に感じ続けるものである。

もし途中で消えてなくなる幸せなら、
この世に生まれ、今生きている人間には
決して消えない四苦を解決する手立てにはならない。

 

求める幸せ、それは、
「自分を愛すること」、これが恒久的な幸せである。
この記事の一番はじめにに書いたことである。

 

ただ、自分を愛いすることは難しい、と多くの人が捉えている。

その難しくしているもの、それが価値観である。

 

誰の中にも様々な価値観は存在する。
そして価値観はある基準を設けている。

その基準に照らし合わせて自分の人生で起こったことの全てを
合格か不合格か、幸か不幸かを判断し裁いている。

しかし、我々人間の心には決まり決まった価値観は存在しない。

なぜならば、心は本質は自由であるのだから。

 

我々人間は、生まれて生きてきた中で
様々な人(親や兄弟、友人、先生…etc)と出会い、
そこで様々な価値観を知り、不用心にそれを信じ込んで、
今まで全く疑うことも無くこうして生きてきただけなのである。

この何の疑いもなく信じ込んだ価値観で人は考え判断し行動し語るのである。
「類は友を呼ぶ」通り人間関係も、その人の価値観の上に築かれるものである。

 

これはつまり、
その人の人生を自分の価値観で創り出していることになるのである。

そしてその人生の全てがその人にとっての経験になり、
その人の真実となり、より一層、自分が信じ込んでいる価値観を
信じ込むことに繋がるのである。

 

こうして無意識の中に信じ込んでいる価値観が固定され、
この固定観念がその人をずーっと無意識に拘束し続けるのである。

このことは誰の心の中にも起こっていることである。

 

残念なことにこの心の仕組みに気づくまでは、
決して自分が信じ込んでいる価値観、固定観念からは解放されない。

故に決してその人の人生は変わらない。

 

あるがままを受け入れるとは、
あるがままを受け止め、そして手放すことである。
あーだ、こーだと判断しないことである。

これはこれでいい、あれはあれでいい、それはそれでいい。
と思い、全てに〇を点けて手放すことである。

もし心で何かに×を点けたら、その何かは心からは消えない。
人は心の中で〇を点けるから、もうそのことを気にしなくて済むのである。

 

 

煩悩とは価値観のことであると私は解釈している。

そして四苦を無くすために「煩悩を捨てろ」とは
「価値観を手放し心の自由を思い出すことである」と私は解釈している。

この世は諸行無常、栄枯盛衰である。
先に書いた形あるものに執着しても幸せに生きられないことを言っている。

 

 

執着は自分を信じ切れないから起こるもの。

それが無ければ自分が幸せに生きることができないと思い、
その何かに自分の存在を依存させていることである。

 

しかし、自分を信じ切れる者は何も執着はしない。

心の仕組みを知り、自分の人生の創造者、責任者が自分であると知る者、
そう人間の本当の力を知っている者は執着しない。

価値観が心の自由を奪い、代わりに限界を創り出す。
その限界が不安を生み、その不安を解消するために人間の心に執着が生まれた。

 

だから思い出さなくてはならない。
本当に幸せに生きたいのなら。
心は自由、何も制限はない、無限であることを。

 

広い広い心で、自由な気持ちで、人生の物事を見てみるといい。

今まで見ていたものが違って見えるはず。

正確に言えば、感じ方が変わるはず。

自分にとって価値あるもの、
他と違って特別なもの、と思ってたものが色あせて見えるはず。

逆に恐れていたものが恐れる必要が無いことにも気づくはず。

自分を守るために何かに執着する必要がないと気づくはず。

見える形や評価に惑わされることなく、
人や生き物、あらゆる物の中身、その本質が同等に見えるはず。

 

 

心は自由、
私も、あなたも、誰もが、あるがまま素晴らしい

と自分や他人に言えたとき、周りをその様に見えたとき、
制限する価値観を手放せたこと、煩悩や執着を捨てることができたこと、
自分を愛したこと、他人を愛したことなのである。

人間の持つ本当の力、その強さ、偉大さを知ったことである。
そうなれば、もう四苦は自分にとって他愛の無いものになっている。

 

私がここに文章でいくら書いても、
私が感じていることを文字では表現しきれない。

ただ、これを読んでくれた人が、
私が偉そうに説く心の仕組みを理解して、
その人の心にある価値観を手放したら
きっと私が伝えたいことを感じてもらえると思う。

 

 

こんなに偉そうに書いても、
今の私は、まだまだ自分の価値観に縛られている。
それが私を未だに苦しめ悩ませる。
でも、それでいい。何も問題はない。

大切なことは、
この残りの人生でどれだけ価値観を手放せるか、
それによりどれだけ心の自由を感じることが出来るか、
そしてどれだけ人間が持つ本当の力、その強さ、偉大さが感じられるか、
であり、これがこれからの私の人生の課題である。

 

人生の唯一の宿題、
それは「自分を愛すること」だと私は思う。

 

この宿題は、子供の頃に学校の先生から与えられた嫌な宿題ではない。

本当の意味で自分を幸せにする宿題なので決して苦しいものではない。
そして期限もないから時間がいくら掛かっても焦ることもない。
もちろん、この宿題をやらなくても誰も叱る者はいない。

ただ、自分の意思で、
「やりたくなった者が、やりたいときに、やればいい」だけである。

 

 
 

 

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このブログは私のひとりごとです、私の個人的な価値観を気ままに書いてあるだけです。
元々は「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望から書き始めたものです。
従ってブログの内容は会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与え不快にさせることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると大変ありがたいです。

 

 

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