人が為すことは、所詮、善も悪もない

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(※これは2014年12月11日のブログ記事の転載です)

 

人間、誰もが偽善者であり偽悪者である!

「人が為す」と書いて「偽(にせ)」という漢字になります。

昔の人がこの漢字を創ったとき
「人が行う(為す)ことは、本物(真)でなく偽物(偽)である」
ということが言いたかったのでしょうか?

もし、そうだとしたら、
人が善い事を行なえば、「偽善(人が善を為す)」となります。

 

ここから言える事は、
人間が善い事をしても、それは所詮、偽物の善である」
ということです。

なんて皮肉で辛辣な言い方なんでしょう。

 

では、人が悪い事を行えば「偽悪(人が悪を為す)」となります。

つまり、
「例え悪い事をしても、それも所詮、偽物の悪であり大したことはない」
という様に解釈できます。

 

ちょっと強引ですが、これらのことから、
「人間の行いには、所詮、善も悪もない!」ということになります。

言い換えれば、「人間、誰もが偽善者であり偽悪者である!」
ということにもなると言えます。

 

こんな風に勝手に解釈すると「偽」という漢字には、
なんてシュールな意味合いが含まれているんだろう!となり、
私は昔の人の感性に共感し面白さを覚えます。

 

 

揉め事の原因は、価値観の違いから

私は、常々
「人の価値観・固定観念は違って当り前」と言っています。

価値観が異なれば、同じ出来事を体験しても
人によって受け止め方、捉え方は異なり一概に善悪の判断はできません。

 

人間関係の揉め事の原因は、
捉え方の違いから起こっていると言っても過言ではないと思います。

 

それは我々の個人的な揉め事だけでなく、
国内の政党の争いも、世界の国々や地域、民族、宗教など
全ての紛争も同じで価値観の違いが原因なんです。

人間が行うことを何が正しくて何が間違っているのかは簡単に決められません。

先にも書いたように所詮、人間が行うことに善も悪もないのですから。

 

ただ、自分の立場や価値観のみで勝手に判断して、
善か!悪か!を決めつけ相手を責めているだけなのです。

 

 

自分の考えは、無数にある価値観の一つに過ぎない

もちろん、このブログに書いてあることも例外ではありません。

私にとっては正しくても、読んでいる人にとっては、
必ずしも正しいことにはならないし、到底納得できない場合も
あるはずなのです。

 

「自分の考えと言うのは、無数にある価値観の一つに過ぎず、
 絶対的なものではないんだ。
 まずは相手の話を聞こう。それから素直に伝えよう。
 正しいと間違い、善と悪はないのだから。」

誰もがこのことを充分に理解していたら、
我々は独善的にならなくて済むのかもしれません。

お互いが相手を尊重した上で自分の意見を述べたなら、
争そうことなく理解し合えることも起こるかもしれません。

 

昔の人は、「偽」という漢字を創るとき
人間の行いに対してただ単に皮肉や戒めを込めただけでなく、
平和への気づきを後世に伝えたくて創ったのかもしれませんね。

 

尚、これら全て私の勝手な解釈です。
漢字の成り立ちについての真偽の程は定かではありませんので
何卒ご容赦お願いします。m(_ _ )m

 

 

<お願い>
私のブログは「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望が元で書き始めたものです。
従ってこれは会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると幸いです。

 

 

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