他人(ひと)を心配する人 ②

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◎前回の「他人(ひと)を心配する人 ①」の続きです。

 

強さを履き違えている人の場合

「自分は大丈夫、でも自分以外の人は心配だ。」と捉える人は、
人間の強さの意味を履き違えている固定観念の持ち主の人です。

こう言う人は、心配の原因が自分の心の中にあると気づいていません。

あまりに多くの心配事を見つけるとその不安を解消しようとして、
自分を心配させる相手に向かって
「あなたのためを想って言っていんだ。やっているんだ。」と考え、
時にはお節介なことをしたりします。

でもこれもただ単に処理できない自分の心の不安を
相手に向かって外に吐き出しただけであり、
そのこと認めたくないために無意識に自己弁護して、
「これは私の愛情なんだ、親切心なんだ。」と思い込んでいるのです。

 

愛情と自分の不安を勘違いししている

昔から親が子を想う言葉で
「親が子供のことを心配するのは当り前だ!」
というセルフを聞いたことがあると思います。

これは先の愛情と自分の不安を勘違いししている典型的な例です。

 

私たちは何気にこのセリフを受け入れていますが、
よくよく考えてみると、とてもおかしなセリフなのです。

親が、かわいい子供に対して
「お前じゃ無理だ」と言っているだけなのですから、
子供の立場から見たら失礼な言葉なのです。

 

でも、悲しいかな、昔から代々言われ続けているため、
我々はこの考えが親からの温かい言葉であると思い込んで喜んでいるのです。

そして今、自分が大人になって
自分の子供に対してその類の言葉を使ってしまうのです。

 

親は幼い頃の自分自身を自分の子供に投影している

今も昔も子供は失敗を沢山します。
何度も間違いも犯します。

でも、それら全てが自分の可能性を知るための経験であり、
そこから何かに気づき、次にどうすればいいのかを
自分で判断し、行動して、また新たな経験をするのです。

この繰り返しが、
自分の中に眠っている可能性を花咲かせるプロセスになり
人間として大きく成長してゆく喜びになるのです。

誰もがその様にして成長し大人になってきたのです。
このことはずーっと変わらない事実です。

 

しかしこの素晴らしい人生のプロセスを
悪いものとして捉えてしまう親は、自分がどの様に成長して
きたのかが全く理解できていません。

自分が経験した間違いや失敗をダメなものとして捉え、
自分の汚点や欠点として見て、
今まで生きてきた全ての自分をあるがままに受け入れていません。

それは、自分を信頼していないということでもあります。

 

そのため、自分の子供には、
出来るだけ失敗や間違いをさせないようにすること、
苦しませないようにすることが親の愛情であると勘違いしています。

そして、もし、子供を平穏無事に育てることができれば、
自分が子供の内に解決してこなかった失敗や間違いを帳消しに出来るのではないか?
と知らず知らずに思っています。

それは、自分の記憶の中にいる幼い頃の自分自身を
自分の子供に投影して、自分の子供を過剰に守る(干渉する)ことで
過去の幼い自分を癒そうと無意識でしている行為でもあるのです。

 

しかし、それでは子供の未熟な点だけを見ていることになり、
その子供の長所や、未だその子の中に眠るこれからの可能性を信頼する
ということができなくなってしまいます。

そのため子供は自分を信じる機会を親に奪われていることになり、
自分の力を無条件に信頼することを学べなくなります。

ゆえに自分の成長と共に自分の力を信頼することが出来ない子供は、
益々不安になります。

つまり、親の干渉や過保護、心配では親の心も一向に癒されることはなく
むしろ皮肉なことに親子共々、益々不安になってしまっているのです。

 

◎長いので次の記事「他人(ひと)を心配する人 ③」に続きます。

 

(※これは2014年11月10日のブログ記事の転載です)

 

<お願い>
私のブログは「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望が元で書き始めたものです。
従ってこれは会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると幸いです。

 

 

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