求める癒しは、違いを認め受け入れる心から

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自分以外の者から癒しを求めても
中々得られることはない。

誰もが自分以外の人の心を
完全には分からないからである。

もし、私が相手の心を想像したとしても、
それはあくまでも私の価値観で
相手の心を勝手に想像したことに過ぎない。

 

私の価値観と相手の価値観が似ていれば、
私の想像が相手の心と合っている可能性は高くなるが、
もし価値観の違いが大きければ、
私の想像が相手の心に合うことは難しくなる。

つまり
「あの人は、きっと○○○と思っているに違いない!」
と考えるタイプの人は、人間関係でトラブルを生じやすいと思う。

それは謙虚さや尊重、寛容に欠けた独善的な思考である。

だから、
あくまでも
自分の中の相手に対する勝手なイメージでしかない、
ということを肝に銘じておくことは大切だと思う。

 

話は逸れたが、
この様なことから相手から癒しの言葉を期待しても、
それは難しいことなのである。

現実は自分が欲している言葉を
相手が言ってくれないことの方が多いのである。

 

当然、このことは私自身にも当て嵌まる。

私が良かれと思った言葉でも、
相手の欲している言葉を言っているとは限らないのである。

この様に私が相手に
癒しの言葉を言っているとは限らないのに
どうして私が相手から癒しの言葉をもらえるのだろうか?

こんなこと、ちょっと考えれば分かることである。

価値観は人それぞれ違って当たり前。
期待した言葉を得られるかどうかは分からないのである。

 

大切なことは、
「価値観は違うことが当り前であり、
 違いこそが多様性を生み、違いがお互いに刺激を与え、
 そこから新しい考えが生まれ人生を面白くする切っ掛けになる。
 故に決して価値観が違うことは悪いことではなく、
 個々の存在に大きな価値を見出すことになるのだ。」
ということを理解していることである。

しかし、
それでも全く異なることはなく、
この世を共に生きていれば、
たとえ僅かでも共感し合えることはある。

この奇跡の様なお互いの価値観の重なりを
素直に喜び、幸せの一つとして感じることだと思う。

 

そして、
「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている。」
ということに白黒決着を付けようとするのでなく、

先の概念のように
「お互い価値観が違っていていいんだよ。」
と認めることが優しさの表れであり、
要らぬ争いをしない平和な心であり、
このことが自分の心を癒すことに繋がるのだと思う。

このことから、
求める癒しは相手からの言葉ではなく、
相手との違いを認め受け入れる自分の心から生じるのである、
と言える。

 

また、この自分の心に生じた優しさは、
決して相手を責めることはなく、
ひょっとして相手の心を癒すことに繋がる可能性もあるかもしれない。

つまり、
違いを認め受け入れる心は、
自分を癒すことと相手を癒すことに繋がる。

これが自分が求めていた癒しであると私は思う。

 

 

(※これは2015-07-05のブログ記事です)

 

<お願い>
これは「ひとりごと」として、その時の私の伝えたいことをランダムに採り上げ書いたものです。
もちろん、治療中にお話ししたことでもありますが、テーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けるようお願いいたします。

 

 

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