どうしても自分にとって嫌なことなら「やりません」

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◎前の記事「三つ目:全てを認め、自分を褒めること(自己肯定)」の続きです。

 

何事も適材適所です

これらの三つの考え方をしても、どうしても自分にとって嫌なことなら、
「自分には合っていない」と判断して、私は「やりません」。

 

私に頼んできた人に、「私なりに色々と考えましたが、他の人の方がいいと思います。」と、ハッキリと断るでしょう。

もちろん、物事によりますが、誰か代わりにやってくれる人にお願いする事もあるでしょう。

 

もし私が無理してやっても、上手くいくことは難しいでしょう。
そして雰囲気は隠せないもの、きっと私はイライラした雰囲気を放つと思います。

それでは誰も喜びませんし、誰も幸せに感じません。

 

だから、どんなことも、やりたい人、やれる人がやればいいのです。
何事も適材適所です。

その方が誰もが納得するだろうし、きっとよい結果にもなると思います。

 

 

もっと大きな視野で物事を見ること

ただ、生真面目な人は、誰か他の人にお願いすることや、任せることを嫌う傾向があります。

こういう人は「自分が逃げた」と考えるようです。

 

生真面目な人は自分の欠点ばかり見る傾向があり、自分を信頼することが出来なく自分に厳しくするのです。

そのため「自分が逃げた」と思うよりも「無理してでも自分がやった方がいい」と考えるのです。

また、他者の欠点も見ることが多いので、自分以上に他者を信頼することが出来ないことも原因になってます。

 

 

木ばかり見ないで森を見ることも大切

人に頼むこと、任せることが「自分が逃げた」と思うこと、それは間違いだと私は思います。
人に頼むことも一つの判断です。
場合によっては英断であることもあります。

 

人間は一人では生きていません。
頼まれた人の人生も、それに関ることによって変化するのです。
その人の成長の機会にもなるのです。

もちろん自分も人に頼ることで何かしらの影響があるのです。
そこから学ぶこともあるのです。

だから短絡的「自分は逃げた」と自分を責めないことです。
もっと大きな視野で物事を見ることです。

要は、木ばかり見ないで森を見ることも大切ということです。

 

お互いに支え合って生きているのです

ただ、三つの考え方をして、「どうしてもやりたくない」と感じることは稀であると思います。

自分の人生に現れたことなら、何らかの意味があると思います。
固定観念を見直し心を調えたら、「やれる」、「やったほうがいい」に自然に変わると思います。

 

もし自然に変わらなければ、先の様に素直に人に頼めばいいのです。
その判断が、きっと最善な判断になるからです。

人間は、お互いに支え合って生きているのですから、赦し合い、信頼し合うことです。
全てを独りで背負い込むことはないのです。

 

◎次の記事「どんなことも自分の意思で行うべき 」に続きます。

 

(※これは2014年09月12日のブログ記事の転載です)

 

<お願い>
私のブログは「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望が元で書き始めたものです。
従ってこれは会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与えることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると幸いです。

 

 

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