個性が自分を苦しめる
心は自由、それは何も書かれていない真っ白い紙のようなもの。
そして心というその白い紙は広大無辺で大きさは測れない。
しかし、その心という紙に我々は様々なことを書いて自分に制限を与えている。
「~でなければならない」、「~というものである」という決めつけた価値観を無数に書いている。
これが価値観でありその人の性格になる。つまり個性である。(自我と呼んでもいい)
個性の無い人間はいない。
しかしこの個性という制限が自分を縛り自由を奪うことになる。
ときにこの個性は物事を判断する基準にもなり、自分や他人を裁き、善や悪、正誤、優劣、美醜、合格、不合格などを決めている。
自分の心を苦しめるのは実は物事ではない。
この制限や基準である。
そう、自分という個性、心にある無数の価値観である。
自分に対してであれ、他人に対してであれ、裁けば必ず負の感情は芽生える。
人は負の感情を抱いたまま受け入れることなど出来はしない。
自分を愛せない理由はここにある。
裁くのを止めなければ、あるがままを受け入れることは誰もできない。
裁くのを止めるには?
裁くのを止めるには?
それはそもそも裁く基準が無いことを思い出すことである。
心は自由、広大無辺の真っ白な紙の様なもの、そこには決まり決まった価値観なんて本来存在しないことに気づくことである。
個性は自分が勝手に自分の心に書いた価値観に過ぎないもので、決まり決まったもの、絶対に変更不可能なものではない。
個性は、ただ単に自分が選び自分に信じ込ませ続けている価値観に過ぎないのである。
ならばその価値観が自分や他人を裁き苦しめるのなら、その時点から変更すればいいだけである。
今まで不合格と判断していたことを今から合格と判断すればいいだけである。
誰の許可も要らない。
自分の心の中の問題だからである。
他人はダメと判断しても自分はOKと判断すればいい。
心は自由、いつでも変更可能!
心は自由、広大無辺の真っ白な紙である。
本来そこには何も書かれていない。
それは今もそうなのである。
決まり決まった価値観はこれからもない。
ただ、我々は自分で勝手に書いて、そのことをすっかり忘れて、自分で書いた価値観に縛られ生きているだけである。
ならば、今、心の自由を思い出して自分で書いたものなら自分で変更すればいい、自分が手放せばいいだけである。
他人の心の中にある価値観は書き変えれないが、自分の心はいつでもどこでも変えることはできる。
真っ白な紙に戻ること
全てに合格、全てに〇(まる)を点けるようにするには、自由に価値観という制限を外せばいい。
本来の心の姿を思い出し、全ての制限、基準を外せばいい。真っ白な紙に戻ればいい。
「自分や他人を裁く基準なんて人間にはないんだ! だから世間や社会が裁こうとも私は誰も裁かない!」
と思えたら本当に心は平和になれる、自由になれる。
自分や他人をあるがまま受け入れることは出来るようになれる。
こちらが相手を裁かなければそれでいい
しかし、他人はその人の心の中にある価値観で依然と自分や他人を裁き、「あーだ、こーだ」と言うこともあるだろう。
そういう場合は、その人の自由なのでそのままにしておけばいい。
その人の心の苦しみは、その人自身が作り出しているのだからその人が心の自由に気付くまでは仕方ないことである。
他人から愛されなければならない。
他人に受け入れてもらわなければならない。
他人から好かれなければならない。
他人に分かってもらわなければならない。といった価値観すらない。
別に他人から嫌われてもいいのである。
世界中から嫌われてもいいのである。
相手がこちらを裁くという理由で、こちらが相手を裁き返さなければそれでいいのである。
ただ、自分が自分を裁かなければ自分の心は平和なのである。
裁かないということは、愛するということ。
これが自分を愛した者が他人をあるがままに愛するということである。
自分のことを裁かない者、自分のことをあるがまま愛してくれる者を人は責めることは出来ない、嫌うことは出来ない。
きっとその人は多くの人から愛されてしまうだろう。
<お願い>
このブログは私のひとりごとです、私の個人的な価値観を気ままに書いてあるだけです。
元々は「治療中の会話の中で重要な部分だけでも後から思い出せる様にして欲しい」という患者様からのご要望から書き始めたものです。
従ってブログの内容は会話の一部分の要約であり、お悩みの内容や会話中の質疑応答などは殆ど省略されています。
そのため、このテーマについて全く私と会話をしたことが無い人が読んだ場合、意味が通じず誤解を与え不快にさせることもあると思います。
何卒、その点をご了承の上お読み頂けると大変ありがたいです。